活動日誌−活動日誌

【16.04.22】 今日(4月22日)の「しんぶん赤旗」の「2016 焦点・論点」に、神戸女学院大学の石川康宏教授の記事が掲載されています。

今、はやりと言うか、何事につけても、国も地方行政も持ち出す「自己責任論」の論破です。

【2016 焦点・論点】「自己責任論」を脱し 新しい可能性を 神戸女学院大学教授 石川 康宏さん 
権利の保障 攻勢的に迫る
戦争法廃止をはじめ、待機児童の解消、奨学金問題の改善、最低賃金1500円の実現など、国民・市民が声をあげ、政治を大きく動かしつつあります。かつてまん延した「自己責任論」との対比も含めて、新たな国民の闘いの意義について、神戸女学院大学の石川康宏教授に聞きました。 (聞き手 行沢寛史)
―新たな広がりをみせる市民の運動の特徴をどう見ていますか。
戦争法反対から始まった「市民革命的」な闘いが、国民の基本的人権の保障にまで運動の幅を広げています。「戦争か平和か」を入り口とした立憲主義の回復・実現という要求が、憲法の全面的な実施に広がりつつあると見ています。日本史上画期的なことです。
根本問題見抜く
「保育園落ちた 日本死ね」というブログをきっかけに「保育園落ちたの私だ」という行動が瞬く間に広がりました。いまや「学生ローン」となった奨学金制度の改善を求める学生らの声が各地で上がり、最低賃金1500円を求める運動も発展しています。
これらは現実の深刻さに余儀なくされた怒りの表出だけでなく、憲法で保障された権利の実現を国に求める国民の主権者意識の高まりをもつという特徴をもっています。「主権者はわれわれだ」という声は、個々の政策の妥当性だけでなく、政策づくりのプロセスを問題にしています。
昨年末に発足した「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」(市民連合)は、安全保障関連法(戦争法)の廃止、立憲主義の回復に加えて、個人の尊厳を擁護する政治の実現を課題に掲げました。
憲法は個人の尊厳を守る国家の役割として、国民の「〜する自由/されない自由」(自由権)だけでなく、生活の最低保障を国家に求める権利(社会権)を定めています。
例えば、憲法25条は「健康で文化的な最低限度の生活」を送る権利が「すべての国民」にあるとして、「すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」義務が「国」にあるとします。26条は国民の「教育を受ける権利」を国家が保障する。27条は「勤労の権利、義務」にくわえて「勤労条件の法定化」、つまり人たるに値する労働条件を国家が守ることを明らかにしています。日本国憲法における社会権の核心です。
しかし、日本社会の実態はこれとかけ離れています。個人の尊厳を守る責任を負った政府がそれを放棄し、問題を国民の「自己責任」に解消する姿勢をもっているからです。いま急速に広がっている市民の運動は、ここに最大の問題があることを見抜いています。問題の根本を見抜く目を深めさせるところに、立憲主義を守れという運動の格別に大きな意義があると思います。
人権の内容学ぶ
―社会権を国民生活の各分野で実現するうえで、どんな課題があるでしょうか。
戦争法をめぐって9条の内容や意義が広く学ばれたように、国家が国民に保障する基本的人権の内容を深く学ぶことが必要です。
18世紀に生まれた近代憲法は、多くの自由を国民に保障しました。それが「人権」の歴史上最初の姿です。しかし、人びとはそれだけで十分な幸福を得ることはできませんでした。経済活動や雇用の自由は、多くの労働者に貧困にあえぐ自由をもたらしました。
そこで19世紀には、資本主義の修正や資本主義からの脱却を求める労働者運動が発展します。
社会権の実現をはじめて宣言したのも労働者たちの取り組みでした。
1871年のパリ・コミューンです。「労働者は自由だけでは食えない」「最低限の生活と教育を保障する国家をつくろう」という宣言が行われます。
その後、1919年にはワイマール共和国が、これをはじめて憲法に明記します。生存権と教育権、労働権。日本国憲法と基本的には変わらない内容です。
20世紀後半には、これらが世界に広まります。
しかし、社会権を自らの運動で勝ち取ったヨーロッパと、そのための国民的な運動を経験しなかった日本では、権利を実現する市民の力量に格差がありました。その差が社会保障の水準、学費や奨学金を含む教育の保障、労働時間や賃金・休暇をふくむ労働条件の保障における両者の格差を生んでいます。
日本の政府や財界が90年代から「勝ち組・負け組」論や「自己責任論」の大キャンペーンを開始した時に、「社会権を忘れるな」「国家には国民の生活を守る義務がある」と正面からの反撃がただちに広がらなかったのは、権利としての生活・教育・労働保障に対する国民の理解が不十分だったからです。
立憲主義の回復を求める現在の運動は、その制約を超える歴史的な意義をもっていると思います。それは憲法を楯に悪政から生活を守るという受動的な運動ではなく、憲法の本格的で全面的な実施をめざす攻勢的な社会改革、社会建設の運動の端緒となっています。そこに「市民革命的」といわれることの根本的な理由があると思っています。
攻守ところ代え
―一方で、自民党から、待機児童の解消を求める声に“行政の責任をいう前に産んだあなたの責任はどうなのか”という暴言がでてきました。
70年代までは「憲法をくらしの中にいかそう」という運動が日本社会の一定の改良を進めました。
それが80年代に逆転しました。
90年前後からの「構造改革」路線が社会権保障制度の本格的な破壊を進めます。今日の待機児童問題や高学費・奨学金問題、ブラック企業・バイトのまん延はこうした自民党政治自身の産物です。
「待機児童がいるのは最初からわかっていたこと」「奨学金を借りたら返すのは当たり前」という新手のバッシングは、これまでの公務員や生活保護などへのバッシングが、政府や財界、メディアによる「自己責任論」まん延に向けた先制攻撃であったのに対し、国民生活を守る国家責任の放棄を見抜かれたことへの受動的な焦りの反撃でしかありません。攻守はところを代えています。
もはや「自己責任」を繰り返しさえすれば国民・市民の運動を封じることができるという状況ではありません。
「立憲主義を守れ」「アベ政治を許さない」というスローガンは、平和主義の堅持を核心にすえながら、そこにとどまらず、さらに憲法の全面的な実施に向けた取り組みを進めさせるものへと内実を広め、深めています。大きな進歩を勝ち取りたいですね。

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