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【12.05.13】 日本の原発は、戦後のアメリカの戦略だった。

前衛に掲載された森英樹氏の論文より

憲法の根本精神は「lifeの尊重」にある。福島原発の爆裂は、政府・東電のずさんでlifeを無視した原発管理が生み出した人災です。原爆も原発も同じ原子力の利用だが、被爆国日本において「原爆は絶対いやだ」が、「原発なら電力供給なのでいい」という国民意識を作る周到な仕掛けがあった。
【原爆も原発もアメリカの覇権手段】1938年12月ドイツで核分裂で巨大なエネルギーが得られる事が発見される。39年9月ドイツ軍兵器局で開発研究に着手。アメリカではマンハッタン計画。45年7月ドイツは開発できずに敗北。アメリカは原爆実験に成功、8月日本に投下する(戦後の世界でアメリカが覇権を得るため)。49年8月ソ連が核実験に成功。53年12月アイゼンハウアー米大統領「平和のための原子力」を提示。54年1月アメリカ原子力潜水艦を完成。
【対米追随の日本原発政策】54年3月ビキニで水爆実験、第5福竜丸被爆。3・1ビキニデ―は原水爆禁止運動を一気に高揚させる。(ビキニ事件から3週間後)アメリカで日本に実験用原子炉を提供する案が出される。中曽根康弘が中心になって原子炉築造予算(235百万円、ウラン235と同数字)を可決。こうした動きに危機感を持った科学者の伏見康治らの提案で原子力研究の3原則(公開・民主・自主)を採択。55年11月日米原子力協定を調印。日本財界の圧力があり、読売新聞社主の正力松太郎が旗振り役となり、原子力平和利用博覧会を開催(日本には毒を持って毒を制すると言う諺がある。原爆反対を潰すには原子力平和利用を謳い上げることが必要)。55年12月原子力基本法成立、「公開・民主・自主」の原則は「自主・民主・公開」の順に(公開が最後に)。56年1月原子力委員会設置、5年後に原発を建設すると言明する。56年4月原発行政推進官庁として科学技術庁設置する。この時期に日米安保体制・自衛隊が発足し、明文改憲をめぐる動きがおこる。
【原発利権体制の形成】60年着工し、73年までに4基建設(地震国である事が開発を逡巡させていた)。73年10月石油ショック、12月石油危機で原発の必要性が明白になったと田中角栄。74年電源3法成立。「電源開発促進税法」は、原発推進の財源を国民が支払う電気料金に上乗せする法律。「発電用施設周辺地域整備法」は、この財源を使って、原発を誘致する自治体に莫大な交付金・補助金を支給する仕組みを作るもの。「電源開発促進対策特別会計法」は、同じ財源を使って、これを経産省と文科省の所管として、原発の研究・開発・促進にあて、原子力村と呼ばれる特異な利益集団を作り上げる。原発の設置・推進と安全管理が同じ役所で行われる事がこの時にできた。原発の数は、73年4基、76年12基、81年、22基、2010年には54基に増殖する。
【核武装の潜在的可能性】日本の原発の特異性として、日本核武装の可能性を潜ませているプルトニウムの保有の問題もある。
【ドイツの原発政策転換】ドイツでは原爆も原発も同じ原子力(Atomkraft)として受け止められていた。導入はオイルショック後の1975年から。市民が疑念の対象にしてきた。エネルギー政策は平和政策でなければならない。かっては原発導入に傾いたが、福島事故が政治的激震をもたらし、3・11後のドイツ各州議会選挙や「倫理委員会」報告書(原子炉事故が日本の様なハイテクの国で起こった。短期的利益で未来の何世代にも負担を強いるような決定は、社会が責任を負って制止すべきである)で政策転換する。ドイツではチェルノブイリ・福島の事故が大きく影響し、原発を平和利用と手放しに受け止めない、熟議の民主主義がある、人々の生命・生存・生活を守るのが政治の任務だとういう考えがある。

(「前衛」2012年4月号に掲載された森英樹氏の「憲法の眼で3・11後の現在を診る」の原発関連記事中「憲法精神から原発問題を読み解く」より要約。)

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