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【15.06.16】 今日の朝日社説は「戦争法案」出直しを、中日は「子どもの貧困」対策を訴える

「違憲」の安保法制―廃案で出直すしかない 朝日社説

「憲法を勝手に変えるな」
いったん廃案とし、安保政策の議論は一からやり直すしかない。
その是非を、国民はまだ問われてはいない。
権力者が開き直り、憲法をないがしろにしようとしているいまこそ、一人ひとりの主権者が憲法の後ろ盾となって、声を上げ続けるしかない。

国会で審議されている法案の正当性がここまで揺らぐのは、異常な事態だ。
安倍内閣が提出した安全保障関連法の一括改正案と「国際平和支援法案」は、憲法違反の疑いが極めて濃い。
その最終判断をするのは最高裁だとしても、憲法学者からの警鐘や、「この国会で成立させる必要はない」との国民の声を無視して審議を続けることは、「法治への反逆」というべき行為である。
維新の党が対案を出すというが、与党との修正協議で正されるレベルの話ではない。いったん廃案とし、安保政策の議論は一からやり直すしかない。
■説明つかぬ合憲性
そもそもの間違いの始まりは集団的自衛権の行使を認めた昨年7月1日の安倍内閣の閣議決定である。
内閣が行使容認の根拠としたのは、集団的自衛権と憲法との関係を整理した1972年の政府見解だ。この見解は、1959年の砂川事件最高裁判決の一部を取り込み、次のような構成をとっている。
(1)わが国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを9条は禁じていない。
(2)しかし、その措置は必要最小限の範囲にとどまるべきだ。
(3)従って、他国に加えられた武力攻撃を阻止する集団的自衛権の行使は許されない。
歴代内閣はこの考え方をもとに次のように説明してきた。
日本は国際法上は集団的自衛権を持っているが、憲法上は集団的自衛権を行使できない。行使できるようにするためには、憲法の改正が必要だ――。
ところが閣議決定は、(1)と(2)はそのままに、(3)の結論だけを必要最小限の集団的自衛権は行使できると改めた。
前提となる理屈は同じなのに結論だけを180度ひっくり返す。政府はその理由を「安全保障環境の根本的な変容」と説明するが、環境が変われば黒を白にしてよいというのだろうか。この根本的な矛盾を、政府は説明できていない。
入り口でのボタンの掛け違いが、まっとうな安全保障の議論を妨げている。
■安保政策が不安定に
この閣議決定をもとに法案を成立させるのは、違憲の疑いをうやむやにして、立法府がお墨付きを与えるということだ。
その結果として可能になるのが、これまでとは次元の異なる自衛隊の活動である。
限定的とはいいながら、米国など他国への攻撃に自衛隊が反撃できるようになる。政府の判断次第で世界中で他国軍を後方支援できるようになる。弾薬を補給し、戦闘機に給油する。これらは軍事的には戦闘と表裏一体の兵站にほかならない。
9条のもと、私たちが平和国家のあるべき姿として受け入れてきた「専守防衛の自衛隊」にここまでさせるのである。
リスクが高まらないわけがない。世界が日本に持っていたイメージも一変する。
その是非を、国民はまだ問われてはいない。昨年の衆院選は、間違いなくアベノミクスが争点だった。このとき安倍氏に政権を委ねた有権者の中に、こんなことまで任せたと言う人はどれだけいるのか。
首相が国民の安全を守るために必要だというのなら、9条改正を提起し、96条の手続きに従って、最後は国民投票で承認を得なければならない。
目的がどんなに正しいとしても、この手続きを回避することは立憲主義に明らかに反する。
数を頼みに国会を通しても、国民の理解と合意を得ていない「使えない法律」ができて、混乱を招くだけだ。
将来、イラク戦争のような「間違った戦争」に米国から兵站の支援を求められた時、政府はどう対応するのか。
住民への給水などかつて自衛隊が実施した復興支援とは訳が違う。派遣すれば国民は反発し、違憲訴訟も提起されるに違いない。断れば、日米同盟にヒビが入る。かえって安全保障体制は不安定になる。
憲法学者から「違憲」との指摘を受けた後の対応を見ると、政権の憲法軽視は明らかだ。
砂川事件で最高裁がとった「統治行為論」を盾に、「決めるのは我々だ」と言い募るのは、政治家の「責任」というより「おごり」だ。
■憲法の後ろ盾は国民
先の衆院憲法審査会で、小林節慶大名誉教授がこんな警告を発している。
「憲法は最高権力を縛るから、最高法という名で神棚に載ってしまう。逆に言えば後ろ盾は何もない。ただの紙切れになってしまう。だから、権力者が開き直った時にはどうするかという問題に常に直面する」
権力者が開き直り、憲法をないがしろにしようとしているいまこそ、一人ひとりの主権者が憲法の後ろ盾となって、声を上げ続けるしかない。
「憲法を勝手に変えるな」

【子どもの貧困】 子ども貧困法成立2年、一人ひとりが育つ社会に  中日社説

「自助」を掲げる安倍政権にやる気は感じられない。
給付型の奨学金を

親から子への「貧困の連鎖」を断ち切ることを目指す子どもの貧困対策法が19日、成立から2周年。子どもの貧困対策は「未来への投資」でもある。
「大学はあきらめて。お金がないから」。東京都内の大学3年生(21)は、母親に高校生の時にこういわれショックを受けた。当時、千葉県内の進学校に通っていた。
父親の家庭内暴力が原因で、両親は3歳の時に別居し、離婚。妹とともに母親に引き取られた。母親は病院の清掃員と介護ヘルパーのパートを掛け持ちし、2人を育てるが、過労がもとでうつ病を発症。入院した。
★貧困率は右肩上がり
収入は母親の障害年金、年約120万円のみとなり、貯金を切り崩しながらの生活。高校時代は、食事の支度、掃除、洗濯とすべての家事をやっていた。外食やボウリングなど友人の遊びの誘いには乗ったことがない。「ずっと独りぼっちだった」。母親は高3の冬、悪性脳腫瘍で急逝した。
今は奨学金を借り家庭教師のアルバイトもしている。寮に入り、月5万円で生活する。卒業後は教育関係の仕事に就きたいという。
「ご飯をちゃんと食べられる。鉛筆や本がちゃんと与えられる。子どもがしたいことができる環境を整えたい」との思いからだ。
子どもの貧困率は1980年代以降、右肩上がりだ。16・3%と、6人に1人が貧困状態にある。
こうした事態を受け、「子どもの貧困対策法」が2年前、国会で全会一致で成立した。にもかかわらず、政府の動きは鈍い。
子どもの貧困に取り組むNPO法人代表や研究者らが呼び掛け人の財団法人「子どもの貧困対策センター」が19日に立ち上がる。
貧困の実態調査やそれに基づく政策提言、就学援助金の支給などを実施する。
★やる気見えない政府
民間の取り組みも大事だが、将来を担う子どもの生活を下支えするのは政府の役割であり、社会保障政策としてやるべきだ。
子どもの貧困対策は、その恩恵を受けた子の所得が将来、上がり、税金や社会保険料を払うようになり、ひいては国内総生産(GDP)に寄与することになる。長期的に見れば、日本社会にとってもメリットになる。
しかし、「自助」を掲げる安倍政権にやる気は感じられない。政府が昨夏、取りまとめた子どもの貧困対策大綱には、具体的な施策はおろか、数値目標すら盛り込まれなかった。
ひとり親世帯の貧困率は5割を超え、先進国の中で最悪の水準だ。そのうち8割以上が母子世帯だ。母子世帯の平均年収は180万円余にとどまる。
日本ではまだ、子どもを抱えての正規の就労は難しい。母子世帯の8割以上が働いているが、6割近くが非正規だ。
加えて、経済的に苦しいひとり親世帯への政府からの所得移転も先進国の中で著しく少なく、貧困率の削減効果は薄い。
一方、経済協力開発機構(OECD)によると、学校など教育への公的支出がGDPに占める割合は31カ国中、日本は最下位だ。当然、教育費の家計負担が最も重い国の一つだ。
文部科学省の調査では、小学6年生の学力テストの結果は、親の年収にきれいに比例している。
1980年代以降、貧困の連鎖が強まった背景には、非正規雇用の拡大や賃金の低下など「労働市場の悪化」がある。
そこでまず、政府に求めたいのが、経済的に苦しいひとり親家庭に支給される児童扶養手当の拡充だ。子どもが成長する上で家庭は最も重要であり、家庭環境を安定させたい。今、満額で月約4万円、2人目の子がいる場合5000円増、3人目以降は1人につき3000円増となっている。だが、所得制限が厳しくなり満額をもらえる世帯は絞られている。満額を支給する対象を拡大し、子の数に応じた加算額を増やすべきだ。子どもが2人になれば食費、教育費も倍近くかかるからだ。
シングルマザーの就労支援策として優先的に企業が雇用するよう、助成金を出すなどの仕組みがあってもいい。
また、教育費の家計負担を軽減することも大切だ。奨学金は日本では多くが貸し付け型だが、返済が不要な給付型を増やしたい。
★チャンスは平等に
戦後、日本は、家庭が貧しくても勉強すれば、高等教育が受けられる、機会均等な社会を目指してきた。そして、高学歴化が進んだ。しかし、国立大学の授業料は40数年で40倍以上に高騰している。貧困や格差が拡大すれば、日本が目指した社会は失われてしまう。政府に、速やかな対策取り組みを求める。

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