【08.08.13】 各種の反核・平和の集いが開かれる

8月11日(月)  原水爆禁止世界大会の参加者からの報告会

原水爆禁止世界大会の参加者からの報告会が桑名医療生協(伊賀町)で行われました。
今年も6月12日の平和行進(桑名から四日市まで)に始まり、7月には3回の69行動(原爆の落とされた6と9のつく日に核兵器廃絶と平和を訴える行動、桑名駅前で実施)を行い、多くの方から署名やカンパが寄せられ、2人を広島大会に送ることができました。
当日参加された、Hさん、Iさんから報告がありました。
Hさんは、こういうものに初めての参加で初々しい報告でした。
報告会の参加者からは、2010年のNPT核不拡散のためにアメリカへ行こうと言う話もありました。

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8月12日(火)  桑名空襲と戦争体験を語り継ぐ集い  

戦争のむごさ 伝えねば  朝日新聞三重版より引用
◇◆元兵士ら、桑名で語る◆◇
 生き残った私の務めは、死ぬまで醜い戦争を語り継ぐこと――。太平洋戦争末期の沖縄の最前線で戦い、多くの仲間を失った桑名市筒尾3丁目の元陸軍伍長の近藤一さん(88)ら3人が12日、同市桑名の六華苑で激戦の様子を語った。戦争体験者の痛切な体験談に、夏休みの子どもたちも真剣に耳を傾けた。
 近藤さんは1940年12月に陸軍に徴兵され、中国山西省に出征した。3年8カ月を戦い抜いた後、44年8月に沖縄に送られた。
 翌年春、沖縄戦が始まった。武器も兵力も米軍にかなうはずはないのに、近藤さんや仲間は小銃一つで敵に向かっていった。
 夜間に敵を奇襲する「切り込み隊」の仲間が「じゃあ、行ってくるわな」と言った時、顔に涙が光っていたのを覚えている。
 「彼は死ぬと悟ったのでしょう」。近藤さんは涙混じりに声を震わせた。
 激戦地とされる嘉数高地で、近藤さんは米兵に背中を下から狙われ、銃弾が右肩を貫通する重傷を負った。日本側の組織的抵抗が終わった時、200人の部隊は11人になっていた。
 「醜い戦争を語り継ぎ、戦争だけは絶対にしてはいけない」と伝えたいという。
 桑名空襲を体験した水谷規祢子さん(72)=同市立花町=と、津市で空襲を経験した山口謙次さん(79)=同市幸町=も、自らの体験を語った。
 45年7月17日未明、当時8歳だった水谷さんは姉、妹と火の手の上がる桑名市内を逃げまどった。米軍は翌日から機銃掃射で市内を襲った。「ダダダダ」という激しい銃声は今も耳から離れない。「こんな思いを孫子にさせたくない」
 山口さんは爆弾や焼夷(しょうい)弾の大きさや威力について説明。赤ちゃんを背負って焼死した母親の写真を見せながら、「こんなことが二度とあってはならない」と約40人の聴衆に呼びかけた。(小若理恵)

山口謙次さん(79)

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水谷規祢子さん(72)

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近藤一さん(88)

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中日新聞の写真


中日新聞の記事も掲載します

炎の中、逃げ惑った桑名空襲 生々しく体験語り継ぐ
 桑名空襲と戦争体験を語り継ぐ集いが12日、桑名市桑名の六華苑(えん)であった。桑名空襲(1945年)の被災者や元日本兵らが体験談を語り、約40人が耳を傾けた。
 桑名医療生活協同組合などでつくる実行委員会が主催。県歴史教育者協議会の山口謙次代表が県内の空襲について話し、小学3年で被災した水谷規祢子さん(72)=同市立花町=が炎の中、逃げ惑った体験などを語った。
 低空飛行の戦闘機から機銃掃射されたため水谷さんは「飛行機は大嫌い。孫ができる年になるまで乗ることなんて考えられもしなかった」と語り、戦争の恐ろしさを訴えた。
 元陸軍兵士の近藤一さん(88)=同市筒尾=は中国で従軍していた時、中国人を銃剣で刺し殺す訓練をした。かわいそうとも思わなかったのは「日本人は優秀だと教えられ中国人らに対する差別意識があったから」だった。
 沖縄戦では、圧倒的な軍事力の米軍相手に、手りゅう弾2つを持って突撃する「きり込み」に向かう兵士を見送ったことも。近藤さんは時折、涙ぐみながら「日本が戦争に向かわないよう、よく考えて」と語りかけた。
  (境田未緒)

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